星野潤

産声

1982年2月10日に群馬県前橋市で生まれました。

高校3年生のときに母校の前橋東高等学校で生徒会長を努めた目立つことが好きなひょうきん者、
きっと、あの日の立候補演説は最高に良い波動で学校中のみんなを引きつけた。

そんな僕の歩みを振り返るとすべてが必然だったかのように人との出逢いが重なったり、ふつふつと自分の中に芽生える言葉で表現することが難しい確信のような感情に身を委ねながら選んできた日々によって、ほしのいえ、ほしの糀が生み出されました。

どの様に星野潤は醸され、ほしのいえ、ほしの糀は生まれたのか?
少し長くなりますが僕の紹介を含めてシェアさせてください。

大学生時代

群馬から東京に遊びに出掛けることがいつからか東京へ住む憧れに変わり東京の大学に進学。
ただ楽しく過ぎていく大学生活の日々を音楽サークルの仲間と共に過ごすだけの大学生活で、何か学んだ事を形にしたいと小さな不安や焦りを感じ始めた時期に恩師と出逢います。

彼の受け持つゼミに入り、文化人類学、民俗学について研究を始めると次々と自分が知りたかった世界が開いていくような感覚があり卒業論文のテーマが「大麻と人類の関わり」に、決まりました。
文化人類学、先住民族、シャーマニズム、テーマにまつわる学びへの情熱は一年間の研究没頭と400枚以上の原稿用紙へと変わり、僕が書き終えた論文はその年の最優秀卒業論文賞を受賞しました。

幼少期から感覚的に自然や環境には興味があり、父によく連れられて行ったボーイスカウトやキャンブ場での「暮らし」の経験がふつふと溢れ始めたのはこの頃からかもしれません。

大学卒業旅行の話をみんなが始めたころ、テレビでは電波少年が流行っていて、バックパッカー、東南アジアの響きに踊る心が抑えきれず僕たちは卒業旅行でタイとカンボジアに向かう事を決めました。
前田耕一さんの書いたマリファナ青春旅行の世界、アンコールワットでハッピーピザを食べるんだっ!と鼻息高く初めて担ぐバックパック、これが人生の中で大きな影響を持つ旅の初めての経験、旅人 星野潤が生まれた瞬間でした。

社会人時代

大学卒業後は就職先が決まっていていたので地元の群馬に戻り、実家から少し離れた介護の会社に通い平日は仕事に汗を流し、週末は山やキャンプを楽しみながら過ごす日々。

何気ない幸せな日々の中にも、キャンプ、人との出逢い、そういう雰囲気のカフェ、クラフトマンフェス、DIY、、、アースディ東京、ボブマリー、ファッション、カルチャー、音楽。。。
音楽を通して出逢った地元のかっこいいお兄さんはGrateful Deadみたいな雰囲気で、ハンドメイドの染のTシャツをお祭りで売っていたんですが次の祭りに一緒に来ないかと誘いを受け無邪気に手伝うと3日で40万の売上が出来てしまってさらに続く旅。。。

こんな経験をしている間に、
日本にも変わった面白い生活をしている人たち、旅をしている人たちがいることを知る。

特に影響を受けたのは将来、海の近くでサーフィンをしながら蕎麦職人として暮らす為に修行の日々を送っていてたお兄さんで家で蕎麦を食べようと誘ってくれた。
風変わりながらもどこか丁寧な生活にときめき、天ぷらあがったよって何気ない一言に意表を突かれて飾らない自然なかっこよさに本当に憧れた。振る舞われた蕎麦を啜りながら聞いたのは、彼がサーフトリップで訪れたオーストラリアの話だった、
実は大学生の頃からなんとなく始めたディジュリド(オーストラリアの楽器)の生まれ故郷、聖地なので旅やまだ見ぬオーストラリアへの興味はますます膨れ上がり、気がついたときには8時から5時まで介護職、7時から10時と土日はレストランでのアルバイトと旅の準備を始めていた。
食を学ぶ為にレストランでバイトを始めたのは、彼に旅先で料理ができるときっとうまくいくと教わったから。

オーストラリア時代

26歳、一年間頑張って貯めた100万円を握りしめワーキングホリデービザでオーストラリアに。
向かった先はダーウィンという場所で先住民のアボリジニーがまだ多く暮らす場所、彼らとディジュリドでセッションするイメージを頭に描きながら初めて訪れたダーウィンのゲストハウス。。。少しイメージと違っていた。
旅に行くんだ!
自由になるんだ!
と毎日、生きごんでいた今日を迎えた僕の理想とは程遠いテンションの低い二段ベットに静かな住人たちと横たわる。何日か悶々とした日々を過ごしていると、やっとそれらしい雰囲気の旅人に出逢ったので彼についていくになったんだけど、木の下で寝ています、(実際に木の下で寝ていた)と言わんばかりの生活をしているフランスとイスラエルから来た若者のグループの中にいた。
そう、旅が始まったんだ!


130キロくらいある巨漢の白人男、ショーンとの出逢いは最高で彼は僕のディジュリドの演奏を気に入ってくれた。日本から来たひょろっとした若者がディジュリドを楽しんでいる姿はきっと彼にも珍しかったんだと思う、ウイークエンドマルシェについてこないかと誘われて飛び乗ったバンの後ろにはでかいカンガルーの骨とショーンの愛犬が先に座っていて、
そう、旅が始まったんだよ!

彼との生活は3ヶ月くらい続き、朝起きると木の下でディジュリドを吹いているショーンを見ながら身支度を始める、彼はディジュリドを作る職人でもあり、彼と一緒に山に入りディジュリドになりそうな木を探したり一緒にバスキングに出掛けたり、週末は彼の友人の家を泊まり歩き、夜は騒がしいホームパーティーの中で安全そうなビリヤード台の下に寝袋をひいて眠るような日々。

ショーンは彼なりの方法でアボリジニーコミュニティの支援もしていてよく食べ物やお金をコミュニティーに持ち込んでおり、僕の旅の目的だったアボリジニーの居住区にも彼の計らいで運良く立ち寄ることができ、アボリジニーの人たちと一緒にディジュリドを演奏したりした。そのときにアボリジニーからもらったディジュリドは今でも大切な宝物だ。

彼と別れたあとはお金もなくなったのでファームで働くことに。
何ヶ月働いただろう、今思えばファームにあったシェアハウスで生活したことが人生で一番最初のシェアハウス暮らしとなった。少しお金が溜まってきたのでファームの仕事をやめて行ってみたかったバイロンベイやニンビンに向かい野宿生活を楽しんだり真夏のタスマニアでレインボーギャザリングが行われると旅人ずてに聞いていたので参加した。
ちょうど満月が自分の誕生日と重なる最高のシチュエーションだった。

日本旅時代
ほしのいえの産声、

そのままオーストラリアに永住したいと思っていたが、実は旅の途中で車上荒らしにあってしまい免許書やパスポートの再発行を日本で行わないと行けかなったから一度日本に戻ることになった。
あとは旅をしているといくつか触れるワードがある、その一つが人生を変える天体ショー皆既日食でちょうど鹿児島で見れる事をオーストラリアで知り、陸路で関東から鹿児島までのラウンドをすることにした。

ただ旅にあこがれていた若者はついに旅人になり、日本でも旅を続けることにした。

少し変わったのは、旅を続けていく中でいつからか旅人として迎えられるよりも旅先で旅人を迎えることが多くなったこと。
きっかけは静岡にあるパヤカ(カフェ)のオーナーのとおるさんからの電話を受け取りパヤカに住み始めた頃からだった。
パヤカの次に訪れたジャムハウス(シェアハウス)には、高野山で行われたアイヌ民族の神々に感謝を捧げる祭例、カムイノミに参加したときに旧友のこーすけと再開し誘ってもらった。
都内にあるジャムハウスでの生活は東京のど真ん中で、世界中から訪れるヒッピーたちを迎える寮母のような生活だった、その頃に東京野菜計画という産地から野菜を中心に農作物の生産者直接卸の会社も立ち上げた。

パヤカ:https://www.facebook.com/payakaonlineshop
ジャムハウス:https://www.facebook.com/JamJamJamHouse

ほしの糀の産声、

ジャムハウスで生活を続けているときに音楽を届ける旅人、奈良大介さんから紹介したい人がいると連絡を受けて迎えたのが後に大阪で富貴工房を営む冨田さんだった。
味噌のワークショップをやるということになって真夏に60キロの味噌を仲間たちで仕込み、そこからは手仕事モード前回に入り有無を言わさず味噌を仕込み染をする怒涛の日々、311の震災が重なった時期で、やんなきゃ!!暮らしの自給だ!!って何かに突き動かされていた。

当時は東京に住んでいたので、暮らしを都会で自給していくには味噌がよかった。
東京野菜計画の頃から米農家さんとの関係もあり有機農法で育った米を仕入れることも出来たので
ここから少しずつ糀の事も学んでいく。
その後に移り住む京都の京北では、酒蔵でアルバイトをして糀の事を深く学べたことも今に繋がっていく。

ほしのじゅんのブログ:https://dijyurijun.exblog.jp

これから

これを書いている今日も変わらず移動していて、今は関西から浜松に抜け群馬に向かっている。
日常の中に少しいつもと違う場所にいれることにホッとするのは旅人の性なんだろう。

発酵の文化、風土、歴史、風習、どれも特別なことはなく暮らしの中で営まれてきたもの。
そんな暮らしを大切にする仲間を大切に思い、また、支えられ、彼らと共に過ごせることに喜びを感じながら今日まで歩んできた。

これからも変わらず、必要とされる仕事があり、その仕事を通し社会に貢献し、人の役にいくらか役に立ちながら過ごしていきたい。

ほしのいえ、ほしの糀
星野潤

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